【サステナビリティの最前線】第1回(上) インテグリティを「正しさ」から考える 湯川雄介
西村あさひ法律事務所・外国法共同事業
弁護士 湯 川 雄 介
1 はじめに
筆者は、M&A、コーポレート、事業再生などの業務に携わった後、ミャンマーに約8年駐在し同国関連法務に従事しつつ、近時は「ビジネスと人権」に関して企業に助言を提供するとともに、大学で教鞭を執るなどしている。
2021年2月1日、ミャンマーにおいて突如発生したクーデターにより同地を取り巻く状況は一夜にして一変した。日本国、現地で活動している日本企業は、クーデターに対してどのような姿勢をとるのかがミャンマー国民から正面から問われた。多くの企業では、ミャンマー人従業員が、自分の給与から払われる税金が同胞に向けられる銃弾となることをおそれ、源泉徴収をしないで欲しいと要請した。
このような場面においては、既存の法律上の枠組みは回答を用意してくれない。適切な対応を企業が自ら考えて実践する必要がある。これは、一種の極限的状況ではあるが、数多ある社会課題に対して既存の法律が対応し切れていないことはいくらでもある[1]。
国家の制定した法律(いわゆるハードロー)による社会課題への対処には、様々な構造的な限界があるのであるが、「ビジネスと人権」のセミナーで、「なぜ法律以上のことをする必要があるのか?」という質問を度々受けるにつけ、そもそも論として、法律が社会課題の解決について、網羅性を有するものでもなければ、「それに従っていれば十分」といえるものでもない、という法律の基本的な効用に関する誤解(法律に対する過大評価といってもよい)が広く存在するのではないか、という疑問が生じてきた。
「ビジネスと人権」において、企業の現場から感じられるもう一つの特徴的な点は、様々な対応による疲弊感である。こには、いわゆる「コンプラ疲れ」に通ずるものを感じる。
企業は、会社法などの伝統的な企業活動にまつわる法律に加え、日々新たに制定される法令にキャッチアップするだけでも多大な労力を必要としている。それに加えて、人権、環境、経済安全保障、AI倫理、等々新たな規制が矢継ぎ早に登場し、たとえば、EUのコーポレート・サステナビリティ・デュー・ディリジェンス指令(CSDDD)のように、外国の立法動向についてもケアしなければならない状況に置かれ、物量的に膨大な法規制に目配りする必要があり、法務担当者、サステナビリティ担当者はもとより、事業部門においても大きな負担感を感じているように見受けられる。
法律というツールが持つ限界への理解(の不十分さ)と、「コンプラ疲れ」の両者は、一見すると別の事象のように感じられるかもしれないが、多くの企業と話をしているうちに、実は密接に結びついている論点なのではないかと思い始めた。
「なぜ法律以上のことをする必要があるのか?」という質問の背景には、「法律では定め切れていない、人・企業としての『正しい』『正しくない』ことが世の中にはあり、それに即した行動が求められている」という考え方の欠如・不足があるのではないか?
「コンプラ疲れ」に関しては、次々と発生する新たな規制について、その表層で求められている各種の事項を網羅的に(モグラたたき的に)対応しようとすることに原因があり、それらの規制が登場している背景事情(すなわち、当該規制が拠ってたつ、「正しさ」「正しくなさ」についての考え方)について理解ができていれば、そのような疲弊感が軽減するのではないか、あるいは、疲弊感が生じにくいような対策・制度作りができるのではないか?
さらに思考を進めると、人権侵害を含む、いわゆる不祥事・企業不正の事案において問題とされることが多い「組織風土」の内実は多様であるが、それは漠然とした法令遵守意識の欠落にとどまらず、より根本的なものとしては、そもそも何が「正しい」「正しくない」かが考えられていなかったり、それらの理解を阻害する組織構造や思考様式(組織に横行しているマインドセッティングと言い換えてもいいかもしれない)があるのではないかとも思えてくる。
つまり、突発的な有事対応ができないこと、法律を超えた社会規範の遵守意識の不足、コンプラ疲れ、不正・不祥事などの様々な問題を貫く課題の一つとして、何が「正しく」、何が「正しくない」行動なのかの判断が十分にできていない、あるいは、判断をするための拠り所がない、という点があるのではないかという問題意識である。
そのような中、少なからぬ企業が「インテグリティ」をキーワードとした取り組みをしていることに接し、企業が物事に「正しく」取り組み、「正しくない」ことをしないことを考えるための一つの素材・契機として、「インテグリティ」という概念を使えないか?と思うに至り、その一端を共有するのが本稿である。
そして、本稿においては、「正しさ」の内実を正面から、具体的には西洋哲学(特に現代の政治哲学・規範倫理学と呼ばれる分野)の考え方を参照しながら検討することを試みる。
筆者は、コーポレートガバナンスやコンプライアンス・危機管理の専門家ではなく、本稿ではそれらの分野について語るものではない。他方、哲学の専門家でもないため、哲学について専門家として語る資格も有するものではない。
しかしながら、ミャンマーにおける有事対応、人権に対応するための企業の姿勢等、様々な事象を目の当たりにし、また、企業において「正しい」ことが必ずしも正面から議論されていなさそうであることを見聞きするにつけ、この点について考察をすることに一抹の意義があるかもしれないと思い、この場を借りて愚見を述べるものである。
2 コンプライアンスアプローチについて
「インテグリティ」の話に入る前に、上述の「法律以上のことをする必要があるのか」や「コンプラ疲れ」との関係において、「コンプライアンス」アプローチについて少し考えてみたい。
「コンプライアンス」という用語が企業法務業界に登場して幾久しいが、その内容として、単なる法令遵守にとどまらないという理解がされることは今や珍しいことではない。法令遵守を超える部分の中身については、一義的な定義などはないと思われるが、社会からの期待や要請といったものがあげられることが少なからずあるように思われる。
その「社会からの期待や要請」の内実については、CSR(企業の社会的責任)であったり、SDGsなどの概念が用いられる場合がある。また、企業のステークホルダーなど、「外部の目線」からの期待に着目することもあれば、規範の形式に着目し、国家制定法(いわゆるハードロー)には該当しないソフトローや業界ルール・ガイドライン、国際的な基準・原則[2]、マルチステークホルダーイニシアチブの原則[3]等を参照する場合もあるであろう。
このように、「コンプライアンス」を法令遵守を超えたものを含むものとして語る場合であったとしても、当該「超えた」部分について、上記のようなソフトな規範や原則等をもって語られることは、企業活動の当事者的な観点からは無理からぬところもあろう。当該「超えた」部分がある程度目に見える形で明らかでなければ、企業として実際にどう取り組めばよいか解らないからである。
他方、そのような語られかた「だけ」にとどまった場合には、結局のところ、ハードローではない「何らかの目に見える規範や要求」への対処、たとえば、サステナビリティ関連のソフトローを守る、SDGsと自社の活動を照合して開示するなど、ハードローコンプライアンスと似たような対応に帰着するように思われる。(それらの活動はもちろん正当なものではあるが)そこにとどまり、より一般的な「正しさ」を考えるところまでたどり着かなければ、「何らかの目に見える規範や要求」に定めがない状況が登場した場合に、それへの対処に窮することが想定される。また、これらの対応が業務負荷を増やし「コンプラ疲れ」の一助となっていはしないか、そしてそのような疲弊感が「正しさ」を考える時間と余裕を奪うという負のサイクルを生じさせてはいまいかとも想像する(なお、誤解がないようにしておくと、このようなアプローチ――ここでは「コンプライアンスアプローチ」という――によって多くの不正等が防げているであろうことを否定するものでは全くない。)。
このようなコンプライアンスアプローチの限界は、もとより筆者が思いついたわけではなく、30年以上も前から経営学の分野において指摘されていた。
その有力な論者が、ハーバード・ビジネススクールの教授のLynn Sharp Paineであり、1994年の著名な論文、“Managing for Organizational Integrity”[4]において、法務部門により設計されたコンプライアンスベースの倫理プログラムが、不法な行為の根底にある問題の解決にはほとんど寄与せず、倫理管理のための“integrity-based approach”の重要性について説いている。
Paine教授は、法的なコンプライアンスについては厳然として必要であるとしつつ、現実問題として従業員が法的な問題にいらだちや恐怖を感じていたり、理解をすることに無理があり、その本質と設計上、できることに限界があるとしている。つまり、法令コンプラインス対応だけでは十分ではないとするのである。
そこで、Paine教授がより強力(robust)な基準として参照するのが、“integrity”である。同教授は、インテグリティ戦略(integrity strategy)は、倫理観を企業の原動力として捉えることに特徴づけられるとし、ethics managementのためのインテグリティ戦略をコンプライアンス戦略との対比において説明している。インテグリティ戦略の目的は、「責任ある行動を可能にする」こととされ、そのエートス(精神)は「(自らが)選択した基準に従った自己統治(self governance)」であり、前提とされている態度は、(コンプライアンスが想定している「物質的な自己利益に導かれた自律的存在」ではなく)それ以外の価値などに導かれた「社会的な存在」であるとされ、当該戦略の適用における基準は法律には限られず企業価値や、社会的な義務を含むとされている。
Paine教授の近時の論文[5]においても、上記論文からの30年の経過にもかかわらず、コンプライアンス重視のアプローチと、倫理重視のアプローチが企業の経営陣に十分に理解されていないとの指摘がなされており、この論点が、「古くて新しい」議論であることがうかがわれる。
3 インテグリティについて
では、「インテグリティ」とはどのように捉えるべきであろうか。
辞書的な意味としては、「(1)一切の部分や要素も欠いたりしていない完全性や全体性、(2)傷ついたり乱されたりしていない状態、(3)心が汚れていない道徳的な意味での誠実さや実直さ」といった意味だとされる[6]。
また、倫理学の観点からは、インテグリティとは「自分がどう生きたいか、自分の人生をどう構想したいかと問い、最も深く自分と同一視できる人生のプロジェクトに忠実に活きること」という考え方があるとされる[7]。
これらの意味・考え方は、一読するとその意味するところが「なんとなくは」[8]解るが、それだけで企業実務にどう適用すればいいか、にわかには解りづらい。
インテグリティの重要性を強調したピーター・ドラッカーについて特集をした近時の雑誌[9]においても、日本人にとってインテグリティの理解が難しいとしたうえで、その背景として、インテグリティ概念が西洋近代の個人主義と連動している一方、そのような個人主義が日本においては本来的な意味とは異なる把握のされ方をしてきたという指摘が哲学の専門家(中島隆博東京大学東洋文化研究所教授)よりされている[10]。
中島教授は、あえてインテグリティを日本語で表現するとすると、「『公共善に開かれた立派さ』、あるいは公共善まで限定せずに『公共的なものに開かれた立派さ』といった表現ができるのではない」かとする。また、同特集において、中満泉国際連合事務次長・軍縮担当上級代表は、インテグリティにつき、「大きな意味で『原理原則に忠実である』そして、『モラルコンパス(moral compass:行動や倫理の基準)に基づいて一点の曇りもなく守っていくべき姿勢』」と捉えている[11]。
上記の用語の定義、概念、研究者や国際関係の最前線に立つエキスパートの発言等をみても、「インテグリティ」を捉えることは容易ではなさそうであるが、これらの知見には一つのヒントが含まれている。
それは、インテグリティを、その対象と、それに向き合う態度・姿勢とに分けられないかということである。
インテグリティの対象とは、中島教授の表現を借りると「公共善」や「公共的なもの」、中満事務次長の言葉では「原理原則」や「モラルコンパス」である。
インテグリティに向き合う態度・姿勢は、前者によると「立派さ」、後者によると「忠実」さや「一点の曇りもなく守っていくべき姿勢」である。
このように、インテグリティについては、対象と態度・姿勢の両面が含まれうる(これは、上記のPaine教授のインテグリティ戦略の議論においてもうかがわれる)ところ、企業実務においてインテグリティが語られる場合には、ともすると、態度・姿勢の面(いわゆる、真摯さ、高潔さ、誠実さ[12])や、それを支えるための制度論(社内で声を上げやすくする(心理的安全性の向上)、通報窓口の設置・強化など)などにフォーカスがあたることが多く、その対象、特に法令や目に見える各種の規範やフレームワークを超える「正しさ」について正面から議論されていることが少ないように見受けられる。
つまり、「正しさ」に正面から、あるいは、十分に向き合えていないことが、明確な答えがない事象、法令遵守を超えた「正しさ」が問われている場面などにおいて適切な対応をすることを難しくしたり[13]、人権侵害を含む各種不祥事事案が後を絶たない遠因の一つではないか?というのが、企業経営者と人権を巡る対話を重ねてきた筆者の印象であり、本稿の問題意識である。
4 インテグリティの「対象」の一つとしての「正しさ」
上記を踏まえ、本稿においては、インテグリティの「対象」のうち、公共善や倫理的な原理原則(≒「正しさ」)について探っていく[14]。
ここで、インテグリティの対象「のうち」としているのは、インテグリティの対象は、本稿で論じるところの「正しさ」[15]には限られない、限る必要はないのではないかという発想に基づいている。
実際、インテグリティは、様々な対象との関係で議論されている。たとえば、ソフトローも含んだ法令遵守(コンプライアンス)に向けられた真摯さ、各企業のミッション・パーパス(例:食品メーカーが美味しい製品を作る)に照らした誠実さ、それぞれの職業・職域(プロフェッション)における倫理に関する高潔さ(例:医薬品メーカーにとっての患者ファースト)などの文脈でインテグリティを考えることは可能であり、それぞれの分野において様々な取り組み、議論がすでにされている[16]。
本稿においては、そのような様々な対象があり得ることを認識した上で、それらの対象は区別して論じるという整理をし[17]、そのうち、比較的に一般的なレベル・文脈での「正しさ」について検討する。
(続く)
[1] たとえば、就活生に対するセクシャルハラスメントが社会問題化されて久しいが、これに対する法的手当は、その途についたばかりである(「就活セクハラ防止、実習やオンラインも対象 26年10月から義務に」朝日新聞(2025年12月10日))。
[2] たとえば、国連「ビジネスと人権に関する指導原則」、OECD多国籍企業行動指針など。
[3] たとえば、国連グローバルコンパクトの10原則〈https://www.ungcjn.org/gcnj/principles.html〉など。
[4] Harvard Business Review, March-April 1994.
[5] Lynn Sharp Paine,“Managing for Organizational Integrity”: My Take After Three Decades (Jan 30, 2023).
[6] 杉本俊介「インテグリティとはなにか――辞書的な定義と解明的な定義」経理情報1706号(2024)35頁。
[7] 前掲注7・杉本。
[8] さりとて、その源流となっている欧米的な文脈と整合的な理解はできておらず、それが様々な課題の一因となっているというのが筆者の考えである。その背景としては、上記Paine教授が述べている「自己統治」、その基礎となっている「自己」、「自由」、「自律」などの基本的なコンセプトの我が国における独特の理解のされ方、それに至った歴史的な受容プロセスなど、多くの論点がある(たとえば、渡辺浩『たとえば「自由」はリバティか』(岩波書店、2025))。
[9] DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー2025年12月号。
[10] 中島隆博「〈インタビュー〉『誠実さ』や『真摯さ』を超えて インテグリティとはなにか」前掲注10・40頁。
[11] 中満泉「〈インタビュー〉混沌とした国際社会の中で為すべきことを為すために 自分の中にぶれないモラルコンパスを持つ」前掲注10・59頁。
[12] なお、「インテグリティ」は「誠実さ」や「真摯さ」そのものではないとの指摘が中島教授からもなされている(前掲注10・中島10頁)。
[13] たとえば、不祥事が起きた後に、企業が「法的には正しい」といった趣旨の主張をし、それがかえって炎上を招いているケースがあるが、これは、「人として」何が正しいかが問われている場面で、それに正面から応えられてないという側面もあるように思われる。
[14] なお、本稿は、「何が究極的に正しいのか」、「そもそも正しい・正しくないということはあるのか」を議論・検討するものではない。人・企業として、「正しさ」や倫理というものが、どのように議論されているのかを確認し、それを企業活動に活用するためにどのようなことができるのかを考えるものである。
[15] ここではあえて厳密な定義はしない。また、「正しくなさ」から考えるアプローチもあるが(たとえば、ジュティス・シュクラー『不正義とは何か』(岩波書店、2023(原書1990))便宜上本稿においては「正しさ」という表現を用いる)。
[16] このような多様な文脈での議論については、國廣正弁護士、菊間千乃弁護士による「対談 インテグリティ(integrity)を考える」シリーズ(NBL1136号(2018)~1214号(2022)(全7回))が大変参考になる。
[17] そもそもインテグリティを議論する際に、対象ごとに分けるのがよいのか、そうしない方がよいのか、それ自体が論点となり得る。しかし、筆者が「ビジネスと人権」や「正しさ」が問題とされる場面において、議論の対象を明確に分けずに議論・検討していることが、企業による対処の混乱、ひいては不適切な判断を導いているケースを少なからず見ている経験上、本稿のようなアプローチに一定の実務的な意義はあると考えている。


