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【サステナビリティの最前線】第1回(下) インテグリティを「正しさ」から考える 湯川雄介

2026/04/20湯川雄介弁護士

西村あさひ法律事務所・外国法共同事業

弁護士 湯 川 雄 介

第1回(中)はこちらからお読みいただけます。

1 自社の「外」の事象についてなぜ責任を負うのか?

たとえば、「ビジネスと人権」においては、企業の人権尊重責任は、自社(グループ)の活動等により直接生じた人権侵害を越えて、取引関係によって自社の事業、製品またはサービスとつながっている人権侵害にも及ぶとされる[1]。また、そのような責任が発生するためには、法的な文脈での因果関係は必要とされていない。このような責任は、国境をまたいで越えることもままある。たとえば、製造業の(自社グループ外の)サプライヤーが海外にあり、当該海外サプライヤーにおいて人権侵害が起きた場合などが典型例である。

また、企業の責任あるビジネスの文脈においては、より広いコンセプトとして、「構造的問題」という概念がある。OECDの「責任あるビジネスのためのデュー・ディリジェンス・ガイダンス」(OECDガイダンス)[2]によると、これは、「ある状況全体に広がっている問題または課題であり、企業が直接制御できない根本原因により引き起こされたものでありながら、企業の事業またはサプライチェーン内部における負の影響のリスクを増大させているもの」とされ、その例として、「児童労働のリスクを増大させる就学難および高い貧困率、政府内部に蔓延する収賄および汚職、マイノリティー集団に対する構造的差別ならびに社会内部で広範にみられる女性と少女へのハラスメントおよび虐待」が挙げられている。これらの問題について、企業は、「政府の機能不全に対する責任」を負わないが、「構造的リスクが存在する状況の中で企業活動を行うという決定は、デュー・ディリジェンスの性質と範囲を拡大することになる。」とされ、企業が取り得る具体的な行動として、複数セクターに渡る協働、政府への働きかけ、効果的な既存の活動の把握などが挙げられている[3]

前者の海外サプライヤーによる人権侵害の例は、自社外の他の企業による行動、後者の構造的問題は、国・地域等における社会構造に関する問題であり、いずれも、自社が悪事に直接手を染めている場面ではない。これらの状況について「自社のグループ内のやらかしであれば解るが、なぜ、そうでもない問題について責任があるのか。」というのは、コンプライアンスアプローチからは至極まっとうな疑問であろうし、筆者もそのような声を一度となく聞いている。

なぜ、企業は自社の「外」の事象に対して責任を負うのか、また、その責任の内容が損害の賠償等ではなく、OECDガイダンスで例示されているように将来に向けられた働きかけ等なのかは、伝統的な法的責任論、すなわち、責任の発生の根拠が行為(作為・不作為)と結果との間の因果関係に基づき、また、責任の取り方が損害賠償や各種罰則とされるという枠内からだけでは理解が難しい。なぜなら、上記のような広い責任論は、そもそも法的責任論(コンプライアンスアプローチ)の枠組みで議論されているものではないからである。

この点について参考になる議論として、現代最大の政治理論家の一人であったとされる、シカゴ大学教授であったアイリス・マリオン・ヤング(1949~2006)の考え方を紹介する。[4]

ヤングは、その著作において、あるシングルマザーが、住んでいたアパートが建て替えられるために立ち退かねばならず、住宅補助金もすぐにもらえず、新たな入居先の保証金も工面できないため、ホームレスになるかもしれないという事象を仮定し、当該事象における登場人物・制度(アパートの建替えを主導する住宅開発業者、給付のために長期間を要する住宅補助金制度、新たな入居先のアパートの大家)のいずれもが不正を行っていないが、結果的に不正義となっている事象を「構造的不正義」と呼んでいる。構造的不正義は、「個々の主体や国家の抑圧的政策の不正行為とは異なる種類の道徳的不正」とされ、「これは意図されたものではないが、消費者、投資家、政府官僚、貸手らといった、立場の異なる何百万の人びとの行為からなる、意図せざる、しかし不正な結果なのである。彼女たち/彼らはみな、通常、常識的で容認されている規則に従い、行動し、自分たちの立場で普通に手に入れることのできる資源を利用しているだけ」であるとしている。

その上で、従来的な道徳と法的責任の枠組みを「帰責モデル」と呼び、そこでは「個人の行為は、わたしたちが責任の所在を特定しようとしている危害と、直線的につながっていなければならない」とされていることに対し、「構造上の不正義に伴う問題とは、こうしたつながりを辿ることができない……私達に必要なのは、個人の行為とその直接的な加害との関係にのみ焦点を当てる標準的な責任の構想とは異なる形で、責任を着想することである。」とし、これを「責任の社会的つながりモデル」と呼んでいる。

そして、「責任の社会的つながりモデル」における責任の内容については、「これは、私達が有罪だとか、批難に価するだとか、あるいは危害の被害者に賠償金を支払う責任があると言うことを意味しない。」とし、「大事なのは過去に対する賠償ではなく、不正な結果を生み出すプロセスに関与する全ての人びとが、これらのプロセスを変化させるために共同することなのである」としている。

このように、ヤングの「社会的不正義」と「責任の社会的つながりモデル」は、従来の法的責任論とは大きく異なる内容であるが、このようなモデル(の存在)を理解すると、上記の新たな責任に関する発想の理解がしやすくなる。

たとえば、ビジネスと人権における企業の人権侵害への関与の構造は、法的な因果関係よりはそのつながりが緩いかもしれないが、取引関係を通じて自社の事業・製品等と関連しているという文脈では、ヤングの「構造的不正義」と比べて強い結びつきがあると把握できる。また、「構造的問題」に対する取組みとしてOECDガイダンスで示されている例などは、「責任の社会的つながりモデル」が示している将来的な変化のための共同による責任の取り方に通ずるところがある。

このように、ヤングの不正議論・責任論は、普段、企業が問題にしているコンプライアンスアプローチにおける法的責任の議論が、およそ社会の構成員としてどのような責任があるかという、より広い議論のフィールドの中において、その一部に過ぎないことを理解するための補助線として機能し得る。

また、上記のような新たな責任については、コンプライアンスアプローチ的な発想では議論がされていないため、伝統的な法的責任論のみを想定し、それに基づき対処すると誤る可能性がある[5]。実際、企業に対する様々な社会的責任の追及・アドボカシーは、上記のようなより広い責任論の枠組みで行われる場合もあり、それに対して法的責任的枠組みで対応しようとすると話がかみ合わない[6]。NGOなどの市民社会ステークホルダーと企業との対話が難航するのはこのあたりに一因があり、それをひもとく観点からも、ヤングのような考え方を理解することには意味がある。

 

2 「正しさ」の扱い方

本稿においては、いくつかの哲学的なものの考え方を例示しつつ、その企業活動への適用例などを示してきた。

しかし、繰り返しになるが、本稿は、それらの考え方が絶対的に「正しい」ものであると言いたい訳ではない。実際、本稿で取り上げた各種の考え方は、批判の対象となり、あるいはさらなる発展を遂げるなどしており、絶対的な「正解」とされてなどいない[7]

たとえば、ロールズ的な普遍的な正義理念については、それが男性ジェンダーのみを問題としていないか、普遍性から逸脱する者(特に女性)を蔑視しないかという問題意識のもと、それとは大きく異なるアプローチを採用している「ケアの倫理」という考え方が存在する[8] [9]

従って、企業が、哲学的に議論されている「正しさ」を扱う際には、まずは、「それが絶対的に『正しい』ものではない」ことを理解することが出発点となる。これは、コンプライアンスアプローチにありがちな、(たとえば法的な)単一の(あたかも客観的な)正解を求めるという姿勢で臨まないことを関係者に要求する[10] [11]

その上で、一定の「正しさ」について、限界や適用範囲を見極めた上で、思考の素材・道具として冷静に活用するというのが、求められている姿勢ではないだろうか。

また、西洋哲学を素材に「正しさ」を考える場合であっても、これは、企業に所属する個々人の個人的な価値判断や信条の変更を求めるものではないし、経営者が細かな哲学的議論に精通していることを目指すものではない。哲学的議論には難解なものが多く、むしろ、哲学的なコンセプトや言葉遣いを用いることが、目指すべき「正しさ」のハードルを上げることが想定される。

「正しさ」の実践にあたっては、どのような落とし込み方をすれば「自分事」化できるかが重要なポイントであり、そのためには、企業の理念・文化・歴史、企業内で普段使っている言葉やものの考え方と照らし合わせた上で、咀嚼し、定着を図るという活動が求められると思われる(この点について、企業において倫理・哲学を実践している朱喜哲大阪大学社会技術共創研究センター招へい准教授によると、「目指すべきは、日常業務の判断や実践を、倫理や理念の観点と結びつけて言葉で説明・吟味できるようになること」とされるが[12]、まさにこのような発想である。)。

 

3 企業における「正しさ」のインテグリティの実践

本稿で議論をしてきた「正しさ」を、企業活動における「インテグリティ」にあてはめると、「『正しさ』の枠組み・基準など(インテグリティの「対象」)をもちいて行動の適切さを判断し、それに対して一貫した姿勢(インテグリティにおける「態度・姿勢」)をもち続けること」と表すことができる。

 もうすこしかみ砕くと、①「人」として「正しい」こと(という概念)があるということを理解し、②コンプライアンスアプローチだけでは「人」として「正しい」ことを実践するには十分でないことがあり得ることを認識し[13]、③「正しい」ものの考え方の枠組みを正確に理解・咀嚼し、④これを意識的に日々の業務に当てはめ、⑤これらを一貫した態度で継続的に取り組むといったことである。

このような取組みの出発点になるのは、企業トップによる「正しさ」を目指すことのコミットメントとリーダーシップであるが、その他、筆者の経験に照らして、ポイントであろうと考えている点の一部を以下に紹介する。

 

⑴ インテグリティの「対象」の区別

前述したように、法令遵守に対する誠実さ、職業倫理の高潔さなど、インテグリティには様々な「対象」が考えられるが[14]、これらに対する取り組み方は、対象が異なれば、それぞれ考え方や、具体的な行動、その効果の測定方法も異なるはずである。

従って、インテグリティの対象は、適切に仕分けされて議論されるべきである。

しかるに、現実においては、これらが混同して議論されていることが少なからずみられる。たとえば、「ビジネスと人権」(国連指導原則)においては、ビジネスが個々人の人権への負の影響を生じさせないことが目的であり、そこにおいてはかかる負の影響が企業にどのような経済的なインパクト(たとえば、風評リスクによる企業価値の低下など)が生じるかは基本的には考慮の対象とはならない。しかしながら、実際に企業において人権に関する議論がなされる際には、人権に関する問題が企業にどのような悪影響を与えるかという観点から扱われることが散見されるが、これは、「人権尊重」と「経済性」を混同した議論である。このような混同は、意図してまたは意図せずして行われているようであるが、意図的な混同は、少なくとも人権尊重の文脈ではインテグリティを欠く態度ということになり、意図せず混同してしまうことは、人権尊重のコンセプトが理解できていないことを意味する。

最終的な経営判断は、必ずしも一つの「インテグリティ」の対象のみにフォーカスして行われるものではなく、様々な事項の総合的な考慮に基づき行われるが、その前工程の分析・議論は適切に仕分け・整理して行われるべきであろう[15]

 

⑵ インテグリティ・セルフ・デュー・ディリジェンス

企業経営者・経営幹部と話していると、本稿で取り上げたような「正しさ」に触れる機会、特に会社の業務上触れる機会がほとんどないとの声が多い。また、一般従業員向けの研修において、「正しさ」や「インテグリティ」について正面から扱っているという事例もにわかに側聞しない[16]

上記に限らず、様々な立場の人の話を聞くと、そもそも論として、「正しさ」について明確な考えや、基準、拠り所などをもっていない状態であることが大多数であるというのが実感である[17]

「正しさ」が求められる場面に遭遇した際に、もともと「正しさ」について考えたことがなく、かつ、業務上もそのようなことを考える・訓練する機会もないのに、適時適切に乗り切ることが難しいのは当然である。

問題だと思われるのは、「正しさ」について上記のような状態にあるという自己認識(つまり「自分たちが『正しさ』についてわかっていない(かもしれない)」という自覚)、が、個々人レベルでも会社レベルにおいても、希薄そうである点である。これは、裏を返すと、「分かったつもりになっている」可能性があるということである。各種不祥事事案において、外部の専門家の助言を仰がずに、企業内部の一部の担当者などの既存の考えに従って、不適切な事案処理などをしているのは、このあたりにも一因があるように思われる。

誤解がないようにしておくと、上記の議論は、日本企業およびその構成員が、「正しい」行為を実践できていないということでは全くない。むしろ、筆者の経験上、多くの日本企業においては、「正しい」行動が結果的に・・・・できていることが多いように感じている[18]

問題は、そのような「正しさ」を、ブレイクダウンしたり、自社に即して言語化すること、自覚的に企業運営の仕組みの中に取り込むことなどが十分にできていない点である。

「インテグリティ」に限らず、業務上の目的遂行にあたっては、目指すべき場所と、自分たちの現在の立ち位置を確認し、そのギャップを理解した上で、どのようにギャップを埋めていくかという考え方・行動をするはずである。「正しさ」についても、自分たちが何を理解しており、何が分かっていないかの棚卸し(「正しさ」のインテグリティについての自社のデュー・ディリジェンス)こそが、各種の行動の出発点となるはずである。

 

⑶ 一貫性

「正しさ」を対象とする「インテグリティ」が企業にとって重要であるとするならば、相応の体制で臨むことが求められるであろう[19]

たとえば、「法務・コンプライアンス」の「インテグリティ」を追求する観点からは、内部の法務人材を拡充し、法令遵守のための体制・規程を整備し、その啓発に努めることを、相応の人的リソースとコストをかけて行っているはずである。食品を取り扱っている企業であれば、「美味しさ」を「インテグリティ」ある形で追求するために、原材料を吟味し、試作を重ね、舌を鍛え、顧客の反応を見、何より、その安全性を確保するために様々な仕組みを作っているであろう。

「正しさ」についても、それと同様に、適切な水準の人的・経済的リソース(「ヒト」と「カネ」)をつけることが必要であり、「仕組み化」(これは、コンプライアンスアプローチ的なマニュアル化、規程化とは異なる)をどうするかがポイントになる。

このような取組みの例としては、企業内に哲学者を任用したり[20] [21]、哲学に関する組織を設けること(2023年のNTTの京都哲学研究所の設立など[22])、そのような組織との連携などがある。

また、「正しさ」に一貫した姿勢で取り組むとは、企業内の様々な活動や状況について、つねに「正しさ」から考えることである。そして、企業活動において「正しさ」が問題になり得ない場面はないことからすると、従来、そのような観点から考慮していなかったところに、「正しさ」という目線(レンズ)を入れることも求められる。

たとえば、パワーハラスメント対応は、労務管理の一場面ととらえると、労務担当部署が、その違法性に着目すると、法務・コンプライアンス部門が所轄することになるであろう。そこにおいては、いわゆるパラーハラスメントの三要素、六類型[23]や、裁判例などに照らして判断がされ、また、社内の研修もそのような枠組みで行われていると思われる。パワハラは、違法性を帯び得る行為であり、このようなコンプラインスアプローチ的対応はもちろん重要である。

その一方、「正しさ」のレンズを通して見ると、異なる景色が見えてくる。たとえば、「パワハラ」と「指導」の境界は何かという議論がされることがあるが、これは、「叱る」という行為が一定の範囲で許容されることを前提としている。しかし、そもそも論として「叱る」という行為の本質を探っていくと、それは、「権力がある人がネガティブな感情を使って相手をコントロールすること」[24]と捉えられる。ロールズ的な発想からすると、権力がある者とない者の「人としての」対等性の欠如、相手方を(上司・先輩の意図する)目的達成のための手段として使っているなどの観点から、そもそも「叱る」という行為それ自体に問題があるという見方ができる。そうすると、「『叱る』という行為自体は是とした上で、『ハラスメント』と『指導』の境界線を引く」という発想にはならず・・・・、「叱る」という行為それ自体に大本の問題があると認識した上で、「叱る」という指導技法をどのようになくすか、また、それに変わる指導のメソッドとして何が適切かを模索するというアプローチが導かれるなど、会社としての諸施策もコンプライアンスアプローチ的な内容とは大きく異なってくるであろう。

「正しさ」のインテグリティの実践とは、このように、すでに違う切り口から考えられている企業行動や仕組みも含めて、「正しさ」の切り口からのものの考え方を、全社的に一貫して導入することであり、商品・サービスの開発、商品のネーミング、宣伝広告のあり方、サプライチェーンマネジメント、倫理的投資を行っている機関投資家対応など、全ての部署・業務に通ずる取組みとなる。従って、マネジメントの強力なリーダーシップのもとにおいて、社内全体を通じて統合的(Holistic)に対応をする必要がある[25]

 

⑷ 異なる声に耳を傾けること

「正しさ」について、企業内部で語られることが少ないという現状に照らすと、それを知り、身につけるためには、企業が普段アクセスしないリソースに積極的にアクセスすることが求められる。

たとえば、企業不祥事の場面においては、往々にして閉塞的な組織構造や、風通しの悪さが指摘されるが、これは、内部の問題もさることながらそのような組織においては、内輪の論理が支配的となって、外部の規範や「正しさ」と向き合う機会がないことも原因の一つと思われる。

実際、日本の企業人の少なからぬ数は、仕事と家庭以外において、交流の場に必ずしも恵まれていないように見受けられる[26]

このような状況に対応するためには、企業とその成員が、「正しさ」というものに触れる機会を能動的に増やす必要がある。その際にポイントの一つとなるのは、自分たちの通常の思考様式とは異なるものの考え方、言語の使い方などをするものを積極的に選択することである。「正しさ」の語り手は往々にして、企業のビジネスのロジック・言語とは異なる言葉遣いや態度を取る。そのため、そのような語り手と遭遇したときには、大いなる違和感、場合によっては嫌悪感すら感じる場合もあるだろう[27]。しかし、自己の立ち位置の確認(前記)という観点からは、そのような違和感や嫌悪感こそが、「正しさ」についてのギャップの正体であることが多く、なぜそのように感じるかを解きほぐしていくことが、非常に重要なプロセスであり、むしろ、耳障りの良い話には注意すべきである

このような語り手との対話には様々な方法があり、語り手の話を聞く機会を設ける方法もあれば、本・映像などと触れあう、外部のワークショップへの参加、産学連携など、様々なアプローチが考えられる。

 

4 最後に:AI時代だからこそ問われる人としての「正しさ」

本稿で紹介してきた内容は、多くの企業にとってはなじみがあるものではなく、その実践はチャレンジングなものとなろう。また、一朝一夕に目に見える成果として現れるものでもないかもしれない。

しかし、そもそも人としての「正しさ」というのは、定量的なKPIなどに馴染みにくいため、その取組みをコストなどの経済的な得失や数値で測定しようというアプローチ自体がすでにズレている(つまり、「カネ」の判断軸をそうではないものに適用するという、「対象」とそれへ向けてのインテグリティの評価技法が混同されている状態)ともいえる。

「正しさ」への「インテグリティ」をもった取組みに正面から目を向けないと企業のリスクに対する本質的な対応とはならず、結果的には企業価値を損なうことにつながり得るし、何より、企業に属する個々人が自社の活動について誇りと自信をもって取り組むことを損ない、そのウェル・ビーイングや尊厳を傷つけることにもつながっているというのが筆者の考えである。

また、AI全盛の時代の中、AIでは判断ができない「人」としての「正しさ」を考えることは、AIにまつわる諸々のリスクに対応するための重要な要素の一つと思われ、大手テック企業が社内哲学者を任用しているのは、その表れであろう。

多くの企業が、人としての「正しさ」についてのインテグリティを具体化し、企業活動が「人」を損なうことが一つでも少なくなることを期待して、ひとまず筆を置くこととする。本稿のテーマについて、意見交換を希望される企業におかれては、ご遠慮なく筆者に連絡頂ければ幸いである[28] [29]



[1]    国連指導原則13b。

[3]    構造的問題については、「責任ある企業行動のためのOECDデュー・ディリジェンス・ガイダンス」和訳76頁コラム6より。

[4]    アイリス・マリオン・ヤング(岡野八代=池田直子訳)『正義への責任』(岩波書店、2014(原書2011))。

[5]    実際にも、「ビジネスと人権」の専門家からは同分野を弁護士が扱うことの危うさについて懸念が表明されている。筆者も複数の専門家からそのような懸念を示された経験があり、その懸念を共有する。

[6]    前述したように、「哲学」には固定的な正しさがなく、様々な考え方が現在進行形で発生している。また、そのような「考え方」は、社会運動等のアドボカシー活動などの「実践」において具体化され、その結果がさらなる「考え方」の発展を促す形で、「考え方」と「実践」がダイナミックに連動している。そして、世界の規範は、そのような連動の中で形成されている。

[7]    なお、「正しさ」を考えるための素材・道具を西洋哲学に限定する必要は、本質的にはないはずである。なぜなら、たとえば、暴力を振るう形の指導や、異性に性的嫌がらせをすることは、西洋哲学以外の思想の枠組みからしても、「正しい」ことではないことは自明のはずだからである。従って、西洋哲学以外の思想の枠組みから「正しさ」を探求することも選択肢となり得る。そのような場合には、当該思想の枠組みとはそもそも一体どのようなものであるのか、それには依拠に足る信頼性があるか(この要素は様々であるが、たとえば、それをテーマとした研究の歴史、当該分野における特定の考え方の受容度、当該考え方を巡って批判や対話が十分に為されているか等が考えられる)、現代に適用されるようなアップデートがされているものなのか、法律など他の社会規範との整合性、各種ステークホルダーと意思の疎通のし易さ等を慎重に吟味する必要があるであろう。

[8]    古田徹也ほか『哲学史入門Ⅳ――正義論、功利主義からケアの倫理まで』(NHK出版、2025)に収録の、岡野八代へのインタビュー「なぜケアの倫理が必要なのか」において、「男性に求められる自律的思考――自身の力で発見した普遍的な法律にのみ従って行動すること――すなわち、他者の判断や人間関係、環境に左右されることなく、誰にでも当てはまる原理によってなすべきかを判断する思考は、ギリガンによれば、偏った男性中心の場が必要である思考である」〔岡野〕とされる。

[9]    重要なのは、個々の哲学的議論を単体でとらえるのではなく、その前後の議論や、背景となっている時代、地理的状況など、文脈において把握することである。たとえば、SDGsやその背後にあるケイパビリティの話は、GDP至上主義に対する批判との関連において、ケアの倫理はロールズの普遍的な正義概念(あるいは、それと共通点を有するコールバーグの道徳性発達理論)の対比があってこそその意図するところが理解できる。

[10]    このことは、「絶対的に『正しく』ないのであれば、企業の行動の判断基準や、考え方の拠り所にならない」と考えることを意味しない。そのようなことを言い始めたら、絶対的な「正しさ」など存在しない以上、企業としては事物の「正しさ」について判断できないこととなってしまうが、これが、まさにコンプライアンスアプローチ的発想の課題であろう。

[11]    この点については、日本思想史の大家である丸山眞男による福澤諭吉の考察が参考になる。少し長くなるが、引用する。「かくして福沢の場合、価値判断の相対性の強調は、人間精神の主体的能動性の尊重とコロラリーをなしている。いいかえれば価値をアプリオリに固定したものと考えずに、是を具体的状況に応じて絶えず流動化し、相対化するということは強靱な主体的精神にしてはじめてよくしうる所である。それは個別的状況に対して一々状況判断を行い、それに応じて一定の命題乃至行動規準を定立しつつ、しかもつねにその特殊的パースペクティヴに溺れることなく、一歩高所に立って新らしき状況の形成にいつでも対応しうる精神的余裕を保留していなければならない。是に反して主体性に乏しい精神は特殊的状況に根ざしたパースペクティヴに捉われ、「場」に制約せられた価値規準を抽象的に絶対化してしまい、当初の状況が変化し、或はその規準の実践的前提が意味を失った後にも、是を金科玉条として墨守する。ここに福沢が「惑溺」と呼ぶ現象が生れる。それは人間精神の懶惰を意味する。つまりそれはあらかじめ与えられた規準をいわば万能薬として、それによりすがることによって、価値判断のたびごとに、具体的状況を分析する煩雑さから免れようとする態度だからである。」(丸山眞男「福沢諭吉の哲学」杉田敦編『丸山眞男セレクション』(平凡社、2015)。

[13]    本稿(上)で述べたような点以外に、企業活動を取り巻く各種の法規範や、ESG、コーポレートガバナンスのような概念・フレームワークの大半は、経済活動にフォーカスしたものであり、「人」としてどうすべきか、何をしてはいけないかという点を明確には語っていない。

[14]    企業は、その営利性に照らし、金を稼ぐことについても、真摯さをもって貪欲に取り組むべきであるというのが筆者の考えである。

[15]    このような各種の「インテグリティ」の対象がある場合に、それぞれの重み付け・優先順位づけをどうするかについてはいろいろな考え方の余地がある。しかし、企業は「正しくない」ことをしてカネを稼ぐことを求められている訳では基本的にはないはずであり、(経済的利益を目的とするという文脈での)経営と、「正しさ」は、天秤にかけられるべき別々のものというよりは、むしろ表裏一体ととらえるべきであろう。古くは、渋沢栄一の「論語と算盤」もそのような趣旨の議論であると思われる(たとえば、「「画師〔小山正太郎画伯〕よく男〔渋沢男爵〕を知る。然れどもこれ一を知って未だその二を知らざるなり。何となれば(……)、算盤と論語一にして二ならず。男嘗て余〔三島中州〕に語って曰く『世人論語算盤を分かって二となす。これ経済の振るわざる所以なり』と。今画師これを二とす。深く男を知る者にあらざるなり。」という一説あり。先生の経済道徳観至れり尽くせりというべし。」田中一宏『先義後利の経営――渋沢栄一が求めた経済士道』(有斐閣、2024)21頁)。

[16]    なお、役職員向けの研修として、外部のリベラルアーツ講座・研修などに参加する機会があることについては認識している。ただし、そのような研修の機会は広く多くの従業員に与えられているようには見受けられず、かつ、企業内のインテグリティ向上の施策として明確に位置づけられた上で、制度的に実施されているものでもないようである。組織として取り組む以上は、構成員個々人レベルでのリベラルアーツ・教養の涵養以上の行動が求められる。

[17]    この点は、問題に直面する個々人のイシューという側面はあるが、それはすなわち、当該個々人がその責めを全面的に負うべきということを意味しない。なぜなら、前にも述べたように、学校教育、普段の生活、仕事を始めてからの業務の中で、そのような概念について考える機会がない以上、「そのような状態」になっていることはある程度無理からぬことであるし、この問題には根深い歴史的背景があると思われるからである。

[18]    筆者の経験として、JETROが2025年~2026年にかけて実施した中小・中堅企業の人権尊重支援のための「伴走型ワークショップ」〈https://www.jetro.go.jp/biz/areareports/special/2026/0302/5d8955774a0125b3.html〉における、中小・中堅企業の経営者・担当者の高い問題意識に接した例などがある。

[19]    たとえば、「ビジネスと人権」の文脈においては、企業は人権の影響評価の結論を関連する「全」社内部門およびプロセスに組み入れるべきとされる(国連指導原則19)。

[23]    政府広報オンライン「NOパワハラ なくそう、職場のパワーハラスメント」〈https://www.gov-online.go.jp/article/201304/entry-8380.html〉。

[24]    村中直人=大利実『脱・叱る指導――スポーツ現場から怒声をなくす』(カンゼン、2025)。

[25]    たとえば、世界最大級の化粧品会社ロレアルグループでは、倫理綱領を定めたり、事業展開をする各国支社にエシックス担当者を設けるほか、年に1回「エシックスデー」と題し、グループ単位ならびに支社単位で、経営陣と従業員が倫理について質疑応答を展開するイベントを実施している〈https://www.loreal.com/ja-jp/japan/press-releases/group/j-web-pr-most-ethical-company-2023/〉。

[26]    これに関連して、朝日新聞の連載「友達がいない? 悩める中高年」〈https://www.asahi.com/rensai/list.html?id=3131&iref=pc_rensai_article_breadcrumb_3131〉。

[27]    日本企業のNGOへの忌避感はこのあたりにも理由があると考えている。

[28]    連絡先:y.yukawa@nishimura.com 

[29]    本稿は「上」「中」を含め、筆者個人の見解を示すものであり、筆者が現に所属し、または、過去に所属した組織の見解を示すものではない。

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    弁護士

    湯川雄介

    西村あさひ法律事務所・外国法共同事業パートナー弁護士、ヤンゴン事務所代表。慶應義塾大学大学院法務研究科・学習院大学非常勤講師(ビジネスと人権)、慶應義塾大学グローバルリサーチインスティテュート X Dignityセンター連携所員(2026年4月~)、日弁連国際人権問題委員会幹事・事務局次長。注力分野はコーポレート・インテグリティ、ビジネスと人権、ミャンマー、海外投資全般。主な著作に『「人」から考える「ビジネスと人権』(有斐閣、2024)。