【サステナビリティの最前線】第1回(中) インテグリティを「正しさ」から考える 湯川雄介
西村あさひ法律事務所・外国法共同事業
弁護士 湯 川 雄 介
1 「正しさ」を考える為の「素材」「切り口」としての哲学
本稿においては、インテグリティの対象としての「正しさ」を考えるための「素材」、「切り口」として西洋哲学(特に現代正義論、現代政治哲学などと言われている分野を指す[1]。以下同じ。)を用いる[2]。
その理由の一つは、単純に当該分野が「正しさとは何か」というテーマに真正面から取り組んでおり、参考になる考え方の宝庫であるからである。実際、この分野における議論は、様々な実務上のジレンマを素材にすることもあり、企業が実際に直面する課題を考えるにあたって有用なモノサシを提供してくれることが多い[3]。
もう一つの理由は、この分野における各種の議論が、ソフトローなどの各種規範や、SDGsなどの国際的な枠組みに少なからず反映されており、これらの規範・枠組みを理解するために、哲学的背景を知ることが重要・有益であると思われるからである。これは、現代正義論の対象が社会的諸制度であり、これら規範や枠組みがまさに社会的諸制度であることからすると自然なことではあろう。また、哲学的議論および関連領域のハードローと対置することにより、これらの規範・枠組みをより立体的に理解することの助けともなろう[4]。
あらかじめ特に強調しておきたいのは、本稿のアプローチは、「絶対的な『正しさ』なるものが存在し、その解を西洋哲学が提供してくれている」という発想では「全くない」という点である。
多様で、不確実な現代の現実世界においては、そもそも単一の「正解」などというもの自体が考えにくい。にもかかわらず、そのような場面において、何らかの絶対的・客観的(らしい)正しさがあるであろうという前提を置き、それを探しに行くという発想・姿勢自体が、日本企業が直面している課題であるというのが筆者の基本的な問題意識であり、その一例として、法的な「正解」を目指しがちな、コンプライアンスアプローチの限界を挙げた。
他方、筆者は「極端な」価値相対主義[5]、主観主義[6]、その場しのぎ主義に陥ることを是とするものではなく、世に様々な考え方はありえど、人として、社会として、何が(相対「的」にではあれ)「正しい」か、あるいは、何が「間違っている」かという一定の価値判断はあってしかるべきであり、社会の中における人の営みたる企業活動の場面においてもそれは同様であると考えている[7]。
そのような価値判断をするためのものの考え方には様々なものがあるが、上記の理由により、その一つとして西洋哲学を「素材」「切り口」(指標やモノサシといいかえてもいい)として用いる可能性を議論しているものである点、つまり、「これが正しい」という議論がしたいのではなく、「正しいことは何かを考えよう。そのために使える素材を探してみよう。」という姿勢である点は、改めて明確にしておきたい。
筆者は哲学の専門家ではなく、また、本稿の限られたスペースで西洋哲学の詳細について哲学的見地から正確に語る資格も能力もなく、それを企図しているものでもない[8]。そのため、諸説については、哲学の専門家の著作にその多くを依拠しているとともに、その内容を筆者独自の観点から大幅に単純化および省略をしており[9]、哲学的な観点からの正確性を追求しているものではないことをあらかじめお断りしておく。
2 「正しさ」の出発点:ジョン・ロールズの「正義論」
「何が正しいか」を議論の対象とする現代正義論の出発点とされるのは、ジョン・ロールズ(1921~2002、ハーバード大学教授)の『正義論』(1971)である[10]。
ロールズのいわゆる「正義の二原理」の第一原理は、全ての人々が、「基本的諸自由」(これには、政治的な自由、言論および集会の自由、良心の自由、思想の自由、人身の自由、個人的財産を保有する権利、恣意的な逮捕・押収からの自由など)について対等な権利を保有すべきとする。ここでいう「基本的諸自由」に含まれるものは、世界人権宣言や、いわゆる自由権規約に含まれている自由のリスト、日本国憲法上の人権ともその多くが重なっており、特に法学を学んだ社会人にとっては大きな違和感はないかもしれない。
また、これら基本的諸自由は、「他の人びとの諸自由の同様〔に広範〕な制度枠組みと両立可能なものでなければならない」とされる[11]。これは、自由を制限するのは他の人の自由を守る場合であり、この規制は最小限でなければならないとされる、日本国憲法の「公共の福祉」の原理に近い発想である。具体的な場面としては、言論の自由を守るためにヘイトスピーチが規制される場面などが挙げられる。
これら、「自由」を巡る概念は、当たり前のようでいて、以外に肌感覚として多くの日本人に身についていないことは、たとえば、「自由には責任が伴う」や「人権と義務はセット」などの発言から窺えるし、筆者の個人的な経験からも感じられるところである[12]。これは、日本の歴史的・文化的背景に基づく権利意識の形成過程や、日本における人権の教育・啓発が「自由」を必ずしも出発点としておらず差別を中心として行われていること[13]などに起因するものと思われる。
このような背景・現状や、社会の様々な場面において、不合理な(≒他者の自由と衝突しない)自由への規制が見受けられ、企業活動における様々な自由への抑圧(その典型例としての各種ハラスメント)が日々発生していることに鑑みると、まずは、「基本的自由」が原則であること[14]と、それに対する制限の原理について再確認をすることには大いに意味があると考える。
またロールズは、正義の原理から行為をすることは、①いわゆるカントの定言命法から行為する(=自分の立てたルールに自分で従う)ということであるとしており[15]、②個人の嗜好や信条などの「善」とは異なるレベルで正義の原理が適用されるとしている。
このうち、①のカントの定言命法のなかには、「人間を、自分自身に対しても他人に対しても、常に同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行動せよ」という内容が含まれている。これを企業活動に当てはめると、たとえば、人を利益を出すための単なる駒・歯車として扱っていないか?という観点から考えられる[16]。女性従業員を接待要員として利用すること、本人の個別同意がない配転人事[17]などはこの考え方からは問題になりうる。また、いわゆる「人的資本論」についても、人を「資本」とすることについては、上記の考えからはクエスチョンマークが発生しうるであろう[18]。
上記の②は、「正義」を個人の信条や嗜好、主観的な善悪の概念とは異なる、全ての人にとっての「共通善」と捉えているところがポイントである[19]。
企業が、利害対立が先鋭な場面に直面した場合には、往々にして、自社に経済的利益をもたらす(もたらしてきた)者におもねったり、人権侵害等の被害者の立場を考えない、自社の旗幟を鮮明にしないで、どっちつかず的・その場しのぎ的にやり過ごそうとするなどの行動に出て、それが不祥事につながり、あるいは、多くの批判を招くなど、企業の信用を損ねていることは、近時発生している様々な事案に共通して見られている現象である[20]。
個人の主観・思想信条とは異なる、「共通善」(「正しさ」)というものがあるという発想は、上記のような状況において、「それは、人によって異なる主観の問題であるから、企業としては判断を明確にすべきではないのではないか」という論法による思考停止や、「悪気があってやったわけではない」という主観主義に引き摺られた問題の矮小化など、企業が陥りがちな発想に対する防波堤としての機能を果たしうる[21]。
このように、現代正義論の出発点となるロールズの考え方には、そのごく一部だけをみても、企業活動の様々な場面で「正しさ」を考えるための拠り所がちりばめられており、企業が「正しさ」を考える際に基本的な素材として活用できる点は多々存在する。
3 なぜ金銭的な豊かさだけを見ないのか?:ケイパビリティアプローチ
しかし、ロールズの正義論は様々な議論や批判にもさらされている。
ロールズは、その第二原理において、社会的・経済的な不平等の存在自体を完全には否定せず、ただしそれが、「最も不遇な人々」の最大に便益に資するものであることを要求している(「格差原理」)。そして、「不遇さ」を判断するための概念として(社会的)「基本財」という概念を用いており、これは、「権利、自由、機会、所得と冨、そして自尊の社会的基礎」であるとしている[22]。
ノーベル経済学賞の受賞者であるアマルティア・セン(1933~)は、平等であるべきはこのような基本「財」ではなく、基本的ケイパビリティであるとした。「ケイパビリティ」とは、「ある人が何かを行ったり、何かになったりするための実質的な自由」[23]や、「価値ある生き方を選択する自由」[24]とされる。
この背景として、センは、ロールズが正義原理を導くために設定した「原初状態」という設定を批判する。これは、まだ何も決めていない状態に、相互にその属性(社会的地位、階級、生来の資産、才能の分配・分布における運、当人の善の構想、属する社会の経済的状況若しくは政治的状況等[25])を知ることができないヴェール(「無知のヴェール」)をかぶった、自由で合理的な個人が集った状況を想定し、それらの当事者が合意したものが正義の原理であるとしたが、それは多様な人間の現実に即していないとセンいう。「外的な状況(たとえば、資産の所有、社会的な背景、環境条件など)においてだけでなく、内的な特質(たとえば年齢やジェンダー、一般的な力量があるか、特別な才能があるか、病気にかかりやすいかどうか、など)」といった多様性を無視し、「人間の同一性を前提にして(理論的もしくは現実の)不平等の考察を進めると、問題の重要な側面を見落とすことになる。」とするのである[26]。
このような考え方は「ケイパビリティアプローチ」と呼ばれ、抽象的な議論にとどまらず、各種の制度に実際に影響を与えている。
たとえば、センが多くの影響を与えた[27]、国連の「人間開発指数」(HDI、1990年制定)[28]は、国の豊かさをGDP等経済成長率のみで測定するのではなく、「長く健康的な生活」「知識へのアクセス」「標準的な生活水準」など、基本的な能力(ケイパビリティ)をその指標として取り入れた。このような、(単に人が生きる経済の豊かさではなく)人生の豊かさの拡張を目指す「人間開発」という概念は、SDGsに反映されている開発のアプローチにも概念的に強く結びつけられている[29]。
また、センがノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツらとともにとりまとめた、「経済業績と社会進歩の計測に関する委員会」の報告書(2009年)[30]においては、GDPを超えた幸福度の測定のためには、物質的な生活水準(所得、消費および財産)のみならず、健康、教育、個人的活動、政治的発言権、社会的繋がり、環境、経済的および物理的安全度などを同時に考慮すべきだと提言した。この報告書は、EUの“Beyond GDP”[31] [32]路線の後押しになり、EUの中期的政策運営そのものに影響を与えた。また、OECDは“Well-being and beyond GDP”を一つの政策テーマとして位置づけ[33]、それを測定するためのWell being framework[34]として具体化され、これは我が国のウェル・ビーイング指標群(ダッシュボード)策定においても参照されており[35]、巡り巡って我が国におけるウェル・ビーイングに関する議論にもつながっている。
このように、近時日本企業も高い関心を有するSDGs、EUの各種施策や、ウェル・ビーイングに、センのケイパビリティアプローチは大きな影響を与えている。
企業がこれらの領域に取り組む際にも、これらの施策の表層に具現化されている各種のアイテム(たとえば、SDGsの17の目標、ウェル・ビーイングの指標群の個別の指標など)の細目にどのように突合するのかという発想(コンプライアンスアプローチ「的」アプローチ)で取り組むのと、そもそも、企業が自分たちの事業やそれにまつわる人びとのケイパビリティにどのようなインパクトを与えているのかというより本質的な観点から様々な分析、対応をしていく(「正しさ」についてのインテグリティアプローチ)のとでは、その取り組み方が自ずと異なってくると思われるし、そのような取り組み方の違いは外部評価の違いにもつながってこよう[36]。
また、従業員の「幸福」を謳う会社は多いと思うが、その活動を現実化するにあたり、「幸福」の内実、尺度とは何かを考える際にも、ケイパビリティの考え方は(主観的な感覚ではなく)具体的な内容・基準を与えてくれるという点において役に立つ。
4 そのアンケートは信用できる?:適応的選好
センとともに、ケイパビリティアプローチの有力な論者である、マーサ・ヌスバウム(1947~、シカゴ大教授[37])は、「適応的選好」と呼ばれる現象について論じている。
これは、人の意思決定に際して選択対象に対して持つ好みは、それぞれの人が置かれている現実の状況に適応するように形成される(「人びとは慣習と政治的現実によって、手の届かないところに置かれたものを欲しないようになることが多い」[38])こととされる[39]。
ヌスバウムは、適応的選好の具体例として、夫からの虐待を女性である以上ある程度は耐えるものと捉えて権利侵害と理解していない場面や、女性が賃金差別を受けていたり家庭内の不公平な所得配分を当然視して抗議しない例などを挙げている[40]。
このような適応的選好の問題点は企業実務においても参考にすべき点がある。たとえば、企業内部において女性にのみ課している負担(お茶くみなど)がある場合に、その制度に対して明確な不平・不満がないとしても、それはある種の諦念に基づくものかもしれない。このような場合に、適応的選好という概念を知らずに、単に社内アンケートで「不満の声は聞いたことがない」ことを根拠として現状に問題がないという認識にとどまっては、制度に問題があることを適切に把握しえない[41]。
また、たとえば、外国での不動産開発プロジェクトにおいて、非常に貧しく劣悪な生活環境にある先住民族に対して、単純に「どの程度の補償が欲しいか」や「何をして欲しいか」を聞いても、あるべき基準が解らないため、非常に低い水準の要求をするかもしれないが[42]、そのような場合には、質問をする前提としてキャパシティ構築が必要であったり、聞き方自体を相当注意する必要があるのではないか、という発想、そして、そのために具体的にどのような行動をとればよいかを考えるというプロセスにつながりうる[43] [44]。
(続く)
[1] これは、あくまでも本稿のスコープの話であり、西洋哲学における認識論、存在論等他の分野がインテグリティとの関係において考慮に値しない、その余地がないということを意味しない。
[2] 「インテグリティ」を東洋的発想から語る余地がないかというとそのようなことはなく、その可能性は大いにあると考えている(たとえば、中島隆博=武井一浩=井上卓「新春対談 哲学的思考から開かれる企業経営・企業法務の眼――ビジネスを哲学の視点から考える」NBL1305号(2026))。それを詳細に検討するのは別の機会に譲るが、日本企業への具体的な適用という意味では、現代的にアップデートをし、用い方に工夫をした上で東洋思想的アプローチが適合する個別の場面は存在しうると考えている。
[3] 少し前になるが、そのようなケースを数多く取り上げたマイケル・サンデル(ハーバード大教授)の著作や登場するテレビ番組が人気になったことが記憶に新しい。
[4] このように、複数の異なる次元・レイヤーの議論を比較することによる理解の促進という意味では、さらには(各種の哲学的思想と密接に結びついている)宗教的観点も包含することが考えられる。
[5] 「正義は人の数だけある」、「正義の反対は別の正義」など。
[6] ここでは、「実際にどういう行動をしようとも、当人の心が大事だという」発想として用いている(加藤周一「日本社会・文化の基本的特徴」加藤周一ほか『日本文化のかくれた形』(岩波現代文庫、2004)39頁)。
[7] これ自体が一つの価値観であることは筆者も自覚している。
[8] 企業活動における「正しさ」を考えるための現代政治哲学上の考え方は本稿で紹介するもの以外にも多々存在する。
[9] たとえば、この後紹介するロールズの議論一つとっても、初期と晩年では変化があり、一言で「ロールズの見解」などといえるものではない。
[10] 神島裕子『正義とは何か――現代政治哲学の6つの視点』(中公新書、2018)。
[11] ジョン・ロールズ(川本隆史=福間聡=神島裕子訳)『正義論〔改訂版〕』(紀伊國屋書店、2018)第1部第2章第11節参照。
[12] たとえば、「自由」に該当するfreedomやlibertyという概念の根底的な意味としては、「奴隷でないこと、奴隷のような状態にいないこと」であるとされる(渡辺浩『たとえば「自由」はリバティか』(岩波書店、2025)12頁)が、一般用語として「自由」が用いられる際には、このようなニュアンスでは理解されていないのではないだろうか。このことは、「現代奴隷」と聞いてもピンとこないことが多い様子からも窺える。
[13] たとえば、法務省の人権啓発コンテンツ〈https://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken96.html〉。
[14] ロールズの第二原理は、社会的・経済的な不平等の存在自体を完全には否定せず、ただしそれが、「最も不遇な人々」の最大に便益に資するものであることを要求し(いわゆる格差原理)、また、肌の色や性別、家柄などで特定の職務や地位に就けない人がいないことを条件とする(いわゆる公正な機会均等の原理)。これらの原理には優先順位があり、「第一原理は第二原理に、第二原理のうち公正な機会の平等原理は格差原理にそれぞれ優先する」とされている。
[15] かかる趣旨の議論としてロールズ前掲注11・第2部第4章第40節参照。
[16] 例えば、「人材管理」などという用語にはそのようなニュアンスが強く感じられる。
[17] 多くの企業においては当人の個別の同意を得ることなく人事異動の辞令が発せられていると思われる。これは、法的な観点からは、就業規則や労働協約に包括的な配転命令条項が含まれており、権利濫用がない限りは問題がないと整理される(本論点に関するリーディングケースとして、いわゆる東亜ペイント事件(最判昭和61年7月14日)。近時の判例法理の動向等につき、労働判例百選〔第10版〕127頁〔龔敏〕)(そして、本稿はかかる法的な論点について何ら立ち入るものではない)。しかし、「自由」を原則とする考え方からすると、「そもそも、人として」ある人を特定の職務・勤務地から他に移す際に個別の同意がないのはおかしいのではないか?という発想になるはずである。近時の労働条件明示のルールの変更において就業場所・業務の変更の範囲が新たに明示事項として追加されたこと〈https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_32105.html〉などはこの文脈で考えると、「当然の変更」と捉えることになる。
[18] これは、人的資本論の企業経営の観点からの有効性に関する議論をどうこう言うものではなく、それとは異なる次元の話である。
[19] なお、ロールズはその後、「社会にはお互いに異なり整合しないような、しかし、〈理にかなった〉(reasonable)形而上学的・宗教的理念(包括的協議)を持つ人びとがいる。彼らの共存を実現するような社会の基本的原理として受け入れられるものが、政治的な意味での正義の構想だと」(瀧川裕英=宇佐美誠=大屋雄裕『法哲学』(有斐閣、2014)50頁)する、政治的リベラリズムという立場をとり、これが当初の「善に対する正義の優越」という枠組みを変更したものかについては、様々な見方がある(瀧川ほか前掲著51~55頁)。
[20] なお、企業が対立する立場のジレンマに挟まれた場合に(たとえば、ミャンマーにおける2021年のクーデター直後の日本企業はこのような立場に置かれた)、旗幟を鮮明にすることが自社従業員の生命・身体に差し迫った危険を及ぼすため、あえてそれをしないという判断は十分にあり得る。ここで問題にしているのは、①何が原則としての「正しさ」かを考え、②それを貫くとどのような不利益が生じるかを具体的に分析し、③そのため、原則論にもかかわらず例外的な対応をとる、という思考プロセスを経ず、むしろ、抽象的な危険を表面上の理由とした思考停止である。
[21] このほか、国際人権の普遍性(Universality)の概念などを理解する際にも助けになりうる。国際人権は、人類が戦争の惨禍を経て到達した、「正しさ」についての一つのグローバルなコンセンサスであり、国や地域を越えた普遍的なものであることは、その重要な要素の一つである(たとえば、https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinken/jinken_minshu.html)。しかし、企業実務の現場においては、必ずしも十分に理解がされていない場面も見受けられる。
[22] 玉手慎太郎『今を生きる思想 ジョン・ロールズ――誰もが「生きづらくない社会」へ』(講談社現代新書、2024)。
[23] 神島前掲注10。
[24] アマルティア・セン(池本幸生=野上裕生=佐藤仁訳)『不平等の再検討――潜在能力と自由』(岩波現代文庫、2018)ix頁。
[25] ロールズ前掲注11・第1部第3章第24節。
[26] セン前掲注24・143頁。
[30] ジョセフ・E・スティグリッツ=アマルティア・セン=ジャンポール・フィトゥシ(福島清彦訳)『暮らしの質を測る――経済成長率を超える幸福度指標の提案』(金融財政事情研究会、2012)。
[31] https://joint-research-centre.ec.europa.eu/projects-and-activities/beyond-gdp-delivering-sustainable-and-inclusive-wellbeing_en
[32] https://www.oecd.org/content/dam/oecd/en/publications/reports/2018/11/beyond-gdp_g1g98ae6/9789264307292-en.pdf
[35] 内閣府政策統括官(経済社会システム担当)「『満足度・生活の質に関する調査』に関する第4次報告書」(2020年9月11日)3頁。
[36] ウェル・ビーイングをどのようにみるかによる違いについては、鈴木恭子「なぜWell-beingを『幸せ』と訳すのでは足りないか?」独立行政法人労働政策研究・研修機構ウェブサイト(2023年11月29日)〈https://www.jil.go.jp/researcheye/bn/079_231129.html〉がたいへん参考になる。
[38] マーサ・C・ヌスバウム(神島裕子訳)『正義のフロンティア――障碍者・外国人・動物という境界を越えて』(法政大学出版局、2012)324頁。
[39] たとえば、「女性の適切な役割とか女性の身体的弱さとかいった時間拘束的なものに関する描写に慣れさせられた女性の希求において、よく観察されている。よりましな事態が見込めなければ、基礎的な健康と体力の面においてでさえ、女性は劣悪な事態に満足するようになるかもしれない。このようにして、選好基底的なアプローチは、結局のところ、正義にもとる現状を支持し、かつ真の変化に反対することになりやすい」とされる(ヌスバウム同前)。
[40] Martha C. Nussbaum, Symposium on Amartya Sen’s Philosophy: 5 Adaptive Preferences and Women’s Options, Economics and Philosophy, 17 (2001)参照。
[41] 特に女性の社会進出については、国際協力機構(JICA)ガバナンス・平和構築部ジェンダー平等・貧困削減推進室「ジェンダー平等と女性のエンパワメントの推進――誰ひとり取り残さない社会の実現に向けて」(2024年2月)〈https://www.jica.go.jp/activities/issues/gender/__icsFiles/afieldfile/2024/03/06/guidance_gender.pdf〉82頁、84頁なども参考になる。
[42] 筆者は、外国の弁護士から、ある先住民族居住地域において、土地の見返りとして何が欲しいかを聞いたところ砂糖を希望されたという話を聞いたことがある。
[43] 適応的選好と直結しないかもしれないが、いわゆる先住民族の権利に関連して要求される、FPIC(Free, Prior and Informed Consent)が適切に取得されているかという文脈においては、当該先住民族コミュニティにおける抑圧が存在しないかという観点から適応的選好的視点が意味を持ちうる。
[44] なお、ケイパビリティアプローチは、先住民族の権利を考える際にも重要である。たとえば、先住民族の土地の権利を、単なる経済的価値ではなく、先住民族のコミュニティや価値観(ケイパビリティの文化的側面)で捉えると、「土地に見合う経済的対価を補償すればよい」という単純な話ではないことが理解できる。ケイパビリティアプローチと先住民族については、例えば、Erika Bockstael & Krushil Watene Indigenous peoples and the capability approach: taking stock, Oxford Development Studies, 44:3(2016), 265-270, DOI:10.1080/13600818.2016.1204435。


